骨メタの酒井さん

聴診器を手に取ると思い出す人がいる。

酒井さんだ。

私がまだナース1年目のとき酒井さんは入院してきた。酒井さんは元は大工さんをしていて細見の体型ではあったが威勢のいいおじさんだった。ご飯の時も他の入院患者さんとホールで食事をするのだが、片膝を椅子に立てて食事する。行儀が悪い気もするのだが、それが酒井さんスタイルで職人らしい気がした。

初めは精神的な症状が強くて入院してきたが、入院してから身体的に体調がどんどん悪化してしまった。排便がない日が続きイレウスになってしまい、ほんとにひどい時は吐物が水様便様のもので、便臭がして驚いた。当然毎日ナースは腹部チェックをする。忙しい業務のなかで、その日酒井さんの担当だった私は腹部チェックにいった。お腹はガスで膨満しており、苦しそうだ。「音聴きますねー」と聴診器をあてたとたん「そういうのは手で温めてからあてるもんじゃねぇのかっ!」怒鳴られた。   「すみませんっ!」慌てて私は聴診器を引っ込めた。普段はしていたのに、今日は忘れていた、いやそのくらいの違いを患者さんは感じないと勝手に思っていた。相手がヒヤッと冷たい思いをしたりびっくりしないように聴診器膜面を手で温める基本を疎かにしていた。相手を思う基本の看護じゃないか、、、。              そんなこと位で怒鳴らなくてもという小さい怒りの後に反省が襲ってきて落ち込んだ。                 酒井さんの体調は悪化し、精神科での検査や治療では良くならず専門の医療機関で色々と検査した。ある日の申し送りで、酒井さんの検査結果は骨メタだと申し送られた。ナース1年目の私は なんの病気なんだ?と思って先輩に聞いたら癌だった。

がん細胞が血流で運ばれて骨に転移している状態だった。酒井さんには内縁の妻がいて、積極的な治療は望まないという希望だった。酒井さんには精神疾患もあり落ち込んでしまう為癌である事実は本人には伏せたままで対応することになった。

酒井さんの状態はどんどん悪くなっていった。歩けなくなり、食べれなくなり、点滴になり、骨まで見える褥瘡がおしりに大きな穴を作り、癌からくる強い痛みを訴えるようになった。「いたい、いたい、どうにかしてくれ」と身の置場もなく体を動かす。何も出来ず 体をさするが「そんなんじゃねーんだ!」酒井さんは苛立って手で払う。強い鎮静効果のある精神薬が点滴に追加され酒井さんは1日の大半を眠って過ごすようになった。

酒井さんの家族は内縁の妻しかおらず、面会も頻回には来ない。

酒井さんが ある日ボソっと「俺がこんなんになっちまったから 会いに来ねぇのかなぁ」と言って寂しそうな顔をした日があり胸が傷んだ。

毎日、死に向っていることがハッキリわかる酒井さんに出来ることは 側にいることだった。治療も出来ない今、何ができるかって、何も出来ないんだよね、ほんとに。側にいて酒井さんが寂しくないように、安心して眠っていられるように側にいることが看護だった。空いた時間は酒井さんの部屋にいってベットのとなりに座っていた。フッと酒井さんが目をあけて 「いたのか…」と。 何時にあがるんだ?といつも酒井さんは気にする。少しでも長く側にいてほしいようで ちょこちょこ腕時計をきにして あと、五分かぁ…とか あともう少しだなぁと寂しそうに酒井さんが言う。

酒井さんも、誰もなにも言わないし、酒井さんも聞かないけど自分の生命のことをわかっている様子だった。だから何も話すことはなかったけど、ふたりで窓の外をながめていることが多かった。

ある日 同じように酒井さんの部屋にいてたまたま私が眼鏡を外すと 酒井さんが「眼鏡がないほうが、可愛いじゃねぇか」と笑った。今この状況でそんなこと言うのかと思ったら なんだか可笑しくてわらってしまった。素直に酒井さんが可愛いと言ってくれたことが嬉しかった。

夜勤者も酒井さんのへやで記録を書いたり、出来る業務をしたりして酒井さんの急変に備える意味もあったけど酒井さんが1人で不安にならないようにしていた。

鎮静剤の副作用か癌の末期症状からくるものなのか酒井さんは喉の熱感や乾きを訴えるようになった。サラサラの飲み物ではむせてしまうし、トロミをつけたものは嫌がった。「桃の缶詰が食べたい」と話し、家族に頼んで持ってきてもらったが、やはりむせてしまう。結局売店にあるシャビィというレモンのシャーベットが気に入り、数口ずつだが何日かにわけて食べてもらった。

酒井さんの最後は急変して3日間心拍が160〜180台が続き走り去ってしまった。

入院してから半年位の出来事だった。

しばらく後になってだが、酒井さんに可愛いなぁと褒めてもらった私はコンタクトにした。相当嬉しかったらしい。

怒られたことも、弱気な顔をみせたことも、むけられた痛みの苛立ちも、2人で黙っていた時間も、悲しそうな顔も、覚えているけど、

1番に思い浮かぶのは威勢のいい酒井さんの怒鳴り声だ。