我が家のサンタクロース

わたしには春夏秋冬稼働のサンタクロースが3年間いたことがある。

見返りのないことを、私は家族以外の誰かの為にこんなにも続けられるだろうか?

サンタクロースの正体は近所に住む濱野さんちのおばあちゃんだ。おばあちゃんに出会ったのは子供の学校の資源回収の依頼チラシを配りに行った時だ。おばあちゃんの孫が私の上の息子と同じ中学に通っていた。

暑い日で、良かったら少し上がっていきなさいよと言われ、戸惑う私に いいから、いいからとお家にあげてくれた。

濱野さん家は、自営で運輸業者をしていて広い敷地に自宅と離れや作業場があり、大きなトレーラーがとまっている。

私は離れに上げてもらい、おばあちゃんはデカいグラスに並々麦茶をついでくれた。小柄な体に焼けた肌、レトロな割烹着はザ、田舎のおばあちゃんといった感じだ。

そこから、私はおばあちゃんの話しを1時間聞くことになる。内容は孫のこと。おばあちゃんの息子さんは台湾人の女性と結婚し、息子さん家族は台湾で暮らしていたらしい。けれど夫婦仲が険悪になり、息子は2人の子供を連れて、一時的に夫の実家に帰ってきたと言う。上の子は中学1年、下のこは小学4年生。二人とも男の子だ。下の子は性格も明るくすぐに学校や環境変化馴染めたが、上のお兄ちゃんが内向的な事もあって、家でも学校でも心を閉ざしているようだ。(台湾に)帰りたい、帰りたいと言い、おばあちゃんは胸が痛むのだと言う。可愛い孫に何でもしてやりたいが、お兄ちゃんは甘えてくれないし、距離を置かれてしまう。もちろん家族みんなで台湾で暮らす事が1番だし、母親が側にいることが1番だと思うが、息子夫婦の関係にあまり口は挟めない。この間はお兄ちゃんが涙を流して帰りたいと行ってきて、もおどうにかしたいけど、わたしもどうしたらいいかわからないんだよ…とおばあちゃんはオデコに手を当て下を向いた。 

目に入れても痛くない可愛い孫の心の痛みにおばあちゃんの心も傷んでいた。

ごめんね、長く引き止めてと、おばあちゃんは冷凍庫からアイスを沢山袋にいれてもたせ 私は すみません、こんなに頂いてとおばあちゃん家を後にした。

そこから、おばあちゃんはサンタクロースとして稼働し始める。この前お邪魔した時、私の家庭のことも聞かれ、家が離婚していることを話していた。

週末ピンポンが鳴り、アパートのドアを開けると、おばあちゃんがナスやきゅうりを沢山袋にいれ玄関に立っていた。家でとれたんだけど食べてとニコニコしながら渡してくれる。有難うございます、助かりますと受け取った。

そこから約3年、2週間に1回のペースでおばあちゃんは家にプレゼントを届けてくれる事になる。

はじめは、おばあちゃんちで採れた野菜が主だった。ナス、トマト、太くなったきゅうり。それをビニール袋の持ち手が食込むばかりの量を持ってくる。「こんなに、食べきれない…」と匂わしても「塩揉みすればいいから!」とニコニコ。有り難く頂いていた。

少し経つと サンタのプレゼント内容が変わってきた。卵、バナナ、ウインナー、キムチ、そうめん、マヨネーズや麺つゆなどなど。時にはすぐに夕飯に出来るようなお惣菜も。明らかに家の為にどこかで購入してきたものだ。しかも量が半端ない。たまごなら2パック、バナナなら、こんなデカい房で何処に売ってる?量。半円ぐらいある。トマトなら箱で。ウインナーは業務スーパーの大袋。そうめん6袋。もちろん畑で採れた野菜もついてくるので、おばあちゃんは一回に小さめのダンボール二箱分を大体2週に1回のペースで家に届けてくれるのだ。そして暮になると、おばあちゃん家でついた餅を、ひとっぺた(あれは何といったらいいのか、ビニールにくるまれたデカいのされた餅)を届けてくれる。硬くなる前に私は必死で切り分けて冷凍する。お陰で3年間正月に餅を買わずにすんだ。

私だってバカではないから、毎回こんなに頂いて、、、と恐縮した。もう、本当に大丈夫ですからと真剣に言ったこともある。何もお返し出来ないしと伝えたら、「いいの、いいの!」とブンブン手をふる。

1年に2回、3回はお花やお菓子をお礼におばあちゃん家に行くと、逆にそれを上回る野菜やお菓子を渡されて、なんだか貰いにいったみたいになった。

おばあちゃんちの孫は1年位はおばあちゃん家で過ごしていたが、その後台湾に戻ったらしい。寂しくなってしまったと、ある時話してくれた。

私は途中から、おばあちゃんの好意を有り難く受け取ることにした。おばあちゃんの孫と同じ年の私のの2人息子に、おばあちゃんの2人の孫が重なるのではないか、片親である家の現状が、孫が母と離れて暮らしていた事に重なり、何かすることがおばあちゃんを充たしているのではないか。

都合よく解釈したかもしれないが、感謝して素直に頂くことが1番良い気がした。

ある時、おばあちゃんが2ヶ月位パタっと顔を見せなくなって、体調が悪くなったのか心配になった。おばあちゃん家に行くことが催促みたいに受け取られたら嫌だなとおもったが、心配でいってみると 入院していたと言う。

転んでしまい足を手術したそうで、びっこを引いていた。そのことをキッカケにおばあちゃんは運転が難しくなった。

わたしはこれでおばあちゃんのプレゼントから解放されるなと思った。頂くばかりも正直負担になる。食べきれず捨ててしまう時は心が傷んだ。

だけど、おばあちゃんは諦めない(笑)

こんどは電話を入れるから、そしたら取りに来て欲しいと言う。え?

ほんとに大丈夫ですと 今までで十分で感謝しても仕切れないと本気で断るもおばあちゃんは折れない。

それからは私の携帯におばあちゃんからの「今日取りにこれますか」と留守電が入るようになる。私は手ぶらで食材を頂きに行くわけだ。なんてこと!

そんな状態が続き、家の子供たちも大きくなり、上の息子が高校卒業、下の息子が高校入学する年の年度末におばあちゃんにいつものように呼ばれ、仕事帰りにおばあちゃん家によると、おばあちゃんは申し訳なさそうに「私も、もう年だしもう色々出来なくなってしまうんだけど、ごめんなさいね。」と。今年で80歳になるそうだ。

いやいやいや、こんなにずっと頂いてばかりで本当に助かりましたと私は頭を下げた。おばあちゃんは「息子さんの高校入学で物入りだろうから足しにして」と商品券の袋を野菜が入った袋に差し入れた。

最後までサンタなのだ。

私は深くとお礼をして「本当に今まで有難うございました」と感謝を伝えた。

家に帰り、商品券の袋をあけると3万円分の商品券。そして何やら別の封筒も入っており中には10万円が入っていた。

しばらくフリーズしたが、これは返さなくてはいけないとトンボ帰りでおばあちゃん家に向かう。「これは、受け取れない」と封筒を突き出すと、おばあちゃんは怒り出した。おばあちゃんに怒られたのは初めてだった。「私の気持ちなんだから!これくらいしか出来ないんだから、返すなんて辞めてくれ!お父さんが奥にいるから、早く帰って!」囁き声で怒鳴られた。

この10万円は旦那さんには内緒で下ろしたお金なんだ。

 

私は圧倒されて封筒を持ったまま足早に引き帰った。

今でも

おばあちゃんの10万円は封筒に入ったまま押し入れに眠っている。

 

精神薬を飲むこと

たっくんのアカシジア(足のムズムズ)がエビリファイを中止したらおさまった。だけど、次に処方されたジプレキサの副作用は強い眠気だった。

デート中も終始眠そうにしていて、運転もあんまり長時間だと、隣から見ているとたっくんの目がとろ~とし始める。あぶない、あぶない。どこかに停めて少し寝ようと言って停車させ、座席を倒すと数分も経たずに、ぷすーぷすーとクジラの潮吹きみたいな音をたてて寝てしまう。

ラインも既読がつくのが遅いことも増え、聞くと寝ていたと言う。夜勤の仕事以外は昼夜関わらず寝て続けてしまうらしい。

節酒にしろ、服薬にしろ、通院だって、等のたっくんは必要だと思っていない。私が交際を継続する条件にあげているのが理由だから。入院中にたっくんからプロポーズされた私は返事の手紙を書いた。これからもたっくんの隣にずっといたいけど、いままでのようなお酒と共に生きる生き方だといつか私は疲れて離れてしまうと。

たっくんの人生はたっくんのもの。だから生き方は自分で決めて自分で責任をとればいいと思う。お酒を常に飲んで楽しく暮らして早死しようが、躁転して妄想に支配されて危険な目に会おうが、自分の好きに生きたいと言うなら、人生一度、好きにしたらいい。だけど、側にいる人はそれに振り回される。確実に擦り減って疲弊する。私の人生も一度だけ。愛する人と少しでも長く穏やかに生きたいじゃない。

たっくんの治療の動機は私を失いたくないから、あとは言う事きかないと私が激怒するから。

私と付き合ってなかったら、お酒も我慢しないし、通院もしないし、薬も眠剤しか飲まないと言う。

でも

それって私がたっくんの人生を操作している?

たまにほんとにこれでいいのかなって思う。薬を飲んでいることで鎮静されている所も大きくて、本来のたっくんらしさを殺してしまっている気もする。大好きなお酒を制限されて、たっくんの生きる楽しみを減らした気がする。それにプラスして薬の副作用。ムズムズが酷くて歩き回って、それが辛くて辛くて内緒で内服やめたら、私にキチガイみたいに怒られて、薬を変更したら1日のほとんどは寝てる。なにが幸せなんだろう。

 

私がたっくんに出会った頃、たっくんは病棟でクールな簡潔な申し送りをしていた。そんなたっくんを私は鮮明に思い出せなくなっている。

誰かと人生を共に生きるって、どんなことなんだろうね。病を抱えながら生きるって?それを支えるって? どういうことなんだろうね。背負うのも違う、特別視もしたくない。だけど、又転がり落ちることだけは阻止したい。

強い眠気を診察時に相談したら?減薬について聞いてみよう?と言ってみたけど、みちくんは首を横に振る。私が診察に同席したら駄目? また横振り。

たっくんが言うには今以上の内服薬の減量は治療にならないらしい。眠気も暇な時間が寝ることで解消されて別に苦ではないと言う。そんなもん?なの? 

ゴールデンウィークが過ぎ、又夏がやって来る。たっくんの入院から1年が経とうとして、少し心がざわついている。

きみちゃんと桜

きみちゃんはどう見ても可愛くない顔を鏡に映して、両人差指を頬の真ん中に指し「きゃわいいっ!」と斜め角度45度でポーズを決める。鼻の横にでっかいホクロがあって、よく職員に「きみこ、でっかい鼻くそがついてんぞ」とイジられ「あら、やだ〜」と笑っていた。オヤツに家族から差し入れされたスルメイカを一度に頬張りイカが口からビヨビヨとびでて化け物みたいになっていた。

そんな可愛いきみちゃんは、私のことを「よっ!絶世の美女!!」と褒めてくれる。きみちゃんが言うには、いままで会った看護婦さんのなかで2番目に可愛いらしい。2番かよ、、

1番は別の病院の看護師さんらしい。「あの人は、まぁずきれいだよぉ」とため息を漏らすように話していた。自分の顔を大絶賛のきみちゃんに褒められて、見る目があるのかないのか分からないが、私は嬉しかった。

だけど申し送り中みんなが真剣に夜勤者の話を聞いてるのに、ガラス窓のむこうからきみちゃんが両手を口の横にあてて、威勢よく「よっ!絶世の美女っ!」とニコニコしながら呼びかけてくるのは、勘弁してほしかった。

私は月1できみちゃんのスリーサイズを測る業務があった。「看護婦さん、はかって」と車椅子をノロノロ押してきみちゃんがナースステーションにやってくる。本人たっての希望で図っている。他の職員が面倒臭がるので、わたしの仕事になってしまった。ナースステーションでカーテンをしめると、おもむろにシャツをたくしあげ、立派なおっぱいを出す。むかしは巨乳だったんだろう。今はびょーんと伸びた餅だ。きみちゃんが自分のおっぱいを持ち上げてくれるので、いわゆるアンダーサイズをメジャーをぐるっと回し測る。胸が垂れすぎてバストトップは測れない。アンダー「100…」次はウエスト、こちらも随分肉が出てる。「100…」

「そんな訳ないでしょー!」ときみちゃん。正確な数字を言うと納得しなくて計測が終わらない。ウエストは誤魔化していつも大体サバをよむ。 80位にしておく。

最後にヒップ。こんどは頼んでもないのにおしりを半分くらい出してくれる。

で結局「100」 うえから全部スリーサイズは100!測り終えるときみちゃんは納得して「看護婦さん、ありがとう」と言ってナースステーションから出ていくのだ。

ある月のお決まりのスリーサイズ測定の時、きみちゃんが「前から、こんなんがあるんだけど」と右胸を触りながら言ってきた。触ると、そこには握りこぶしより少し小さい石のように硬いものが、触れるどころかしっかり掴めた。

看護師たちが代わる代わるに触り、みんな思い当るものは同じだが、きみちゃんになにも言えなかった。

検査の結果は乳癌でステージ3。きみちゃんは元々統合失調症で、現状を伝えることで、精神状態が悪化したり騒いだりされても迷惑をかけてしまうというご家族の希望で本人には告知せず、年齢的な面からも転院はせず、慣れた病院で最後まで見て欲しいとのことだった。

何も知らないきみちゃんは、右胸の塊を「これは、筋肉なんだよー」と真剣に語っていた。でも、外診にいく事が増えたり体調が悪くなってくると、薄々本人も不穏な空気を感じ外診先の病院待合で「なんで分かってくれないんだよぉ!私は治したいんだよぉ!」「ねぇちゃんとは縁を切るよ!」と家族に怒鳴り、泣いていた。お姉さんも涙ぐみながらも、「大丈夫、治るから!」と明るい声を出していた。

きみちゃんのおっぱいはみるみる悪化し乳首は花が咲いたようになり、皮膚がグチュグチュして浸出液がいっぱい染み出るようになった。何枚も分厚くてガーゼを重ねテープでとめるが滲み出てくる。

食欲も落ち、あんなに食べることに執着していたのに、食事も少量しか口に出来なくてなってしまった。果物ジュースやヤクルトなど本人が口にしたいものを家族が差し入れてくれた。

ちょうどその頃桜が満開の季節だった。その日は天気も良く、きみちゃんの体調も良さそうだったので私は師長の許可をもらい、きみちゃんを院内のお花見に誘った。正直、来年は見れないだろうと思っていた。きみちゃんの車椅子を押して病棟の外に出る。桜をしばらく2人で見て病棟に戻る帰り道、車椅子を押している私に、きみちゃんが言った。

「看護婦さん、全部わかってるからなぁ。大丈夫だからなぁ。」優しい声で私を慰めるように「だいじょーぶだから、大丈夫だからなぁ」と。

わたしは「何、いってるのきみちゃん」と言いながら声が涙ぐんでしまい、車椅子の後ろからきみちゃんを抱きしめた。

それからグッと背を正し、明るい声で「また、来年もお花見しようね!」と声をかけたが返事はなかった。

それから1ヶ月半。きみちゃんは亡くなった。最後は苦しまず、お姉さんがお見舞いに来た夜に亡くなった。

 

 

 

秀ちゃん

患者さんに自分の名前を呼んでもらえると嬉しい。他の誰でもない私を呼んでくれている事に自分の価値を見出だせる気がする。

だから、なかなか個別の認識が難しい患者さんにも「私誰だっけ?」「さ.い.き!」「はい、言ってみて」なんて暇があると、そんなふうに繰り返して名前を覚えてもらっている。

ここからは、大好きな秀ちゃんの話。

秀ちゃんは頭の薄い70代のおじさん。

秀ちゃんはご飯食べたり寝る以外は基本、1日中床に落ちている髪の毛をって拾っている。それが仕事かのように一本一本拾い、1箇所に集める。集めたからって何にもならないんだけど、無心で拾っている。 スタッフが意地悪して集めた髪の毛を手で払うと本気で怒ってくる。

あとは、自分の乳首をいじったり、おちんちんをいじったりをみんながいる場所でも披露してしまうので、「なにやってんだ!おめぇは、ばか!」と威勢のいいヘルパーさんにはたかれる。時には乳首をぎゅぅとつままれて「いてぇ、いてぇ」と騒いでいた。

秀ちゃんに話かけても内容がない答えしか帰ってこない。何をきいても「えー、どうだろうねぇー」「なんだかねーぇー」「そうだねぇー」とかそんな調子だ。

だけど、たまに意味もなく笑う時があってその顔がなんだか可愛くて憎めなかった。

私は秀ちゃんに名前を呼んで欲しくて、根気よく教えた。はじめは「秀ちゃん、私だれだっけ?」と聞いても、「さぁー だれだろうねー」と言った感じだった。しかし繰り返しとはすごいもので数ヶ月で秀ちゃんは私の名前を覚え、「誰だっけ?」の問いに「斉木さんだろぅねぇー」と答えてくれるようになった!なんと言う喜び!

アッパレ!

だけど話はこれから。

秀ちゃんはある日の夜、噴水様に嘔吐した。血圧が180超え、日勤者が来た時間には目の焦点が合わず、明らかに異常だった。脳のCTで脳出血の疑いがあることが分かった。うちは精神科なので専門の病院への緊急の入院が必要になる。その日の日勤リーダーは私。師長も主任も頼りになる先輩達はみんな休みだ。ドクターが転院先をあたり、相談員は家族と連絡を取る。でも、家族との連絡がなかなかつかず(精神科あるあるで、家族と患者さんの関係が希薄なのだ。遠い親戚がキーパーソンになっていたりする。)スムーズに事が運ばない。

やっと転院先が決まり、相手方の病院に出す情報提供の書類をドクターが作る。看護側が転院サマリーをあげるのだか、その日の日勤者にそれを頼めるスタッフはいなかった。頼むより、自分で作成したほうが確実に早いと思うスタッフ構成だった(申し訳ないけど。)リーダー業務をしながら昼ご飯も無視してサマリーをつくり、病院車も外診で出払っていたので、救急車を病棟から呼び、わたしが救急隊員を秀ちゃんのベッドまで誘導した。リーダーとしてここは病棟に残るべきだったけど、救急車への添乗も頼めるスタッフがいない。確実に残業になるし、向こうの病院である程度病状を説明しなければいけない。正直、任せられるスタッフがいなかった。       

師長に電話を入れ、状況を説明し私が救急車に乗って病院に向かうことになる。リーダー業務をしたことのないスタッフにリーダー業務も振れず、転院準備も振れず、添乗まで引き受けパニック状態だが、私はどーかんがえたって脳出血してからだいぶ時間経ってる秀ちゃんと救急車に乗り込み、脳神経外科へ向かった。

救急車搬入口から運びこまれると、永ちゃんの周りに5人くらいして看護師がバッと取り囲む。「病院からきたのに点滴もしてないなんて、何かんがえてるの!?」と看護師に怒鳴られ、「すみません」と謝る。ドクターの指示でテキパキとバイタル測定やルート確保がおこなわれ、あっと言う間に秀ちゃんは病棟にはこばれていった。

その後、家族は遠方で入院の手続きに来れないため、後見人さんに病院まで来てもらってから私は自分の病院に戻った。もう病棟にひ日勤者は誰もおらず、夜勤者が忙しく業務をこなしていた。怒涛の1日が終わった。

 

秀ちゃんは3ヶ月で治療を終え、病棟に戻ってきた。

 

脳出血の後遺症や、長期ベッドで寝ていたこともあって、秀ちゃんは歩けなくなっていたし、髪の毛にも何の関心もしめさないどころか、自分の意思とは関係なく首をニワトリのように振るような姿になって帰ってきた。もちろん話しかけても無反応で、目が合えばいい方といった感じだった。

変わってしまった姿の秀ちゃんに私はなをも「秀ちゃん!私だれだっけ?わすれちゃったの?一緒に救急車乗った仲でしょ?」と話かけた。もちろん、うんもすんもない。だけど、もう一度あの時みたいに名前を呼んで欲しくて、呼びかけることを続けていた。

再入院してから5ヶ月くらい経ったころかな、その日も何も期待せず、秀ちゃんに「秀ちゃん、私だれだっけ?」とマスクを外して自分の顔を指指すと、秀ちゃんがきょとんとした顔で「斉木さんでしょ」と言ったのだ!なんでそんな当たり前の事聞くの?といった表情だった。

もおびっくりして、嬉しくて嬉しくて、「秀ちゃん!すごい!覚えててくれたの!!?」と秀ちゃんの頭を撫でまくると、これまた嬉しそうな顔をして秀ちゃんが笑ったんだよ。

私は、看護師になって良かったほんとーに良かったって湧き上がって溢れ出るおもいだった。秀ちゃんの脳のシナプスが一瞬つながった!感動だった!

それからも呼びかけに無反応の日もあれば、いくらかハッキリしている日はちゃんと名前を答えてくれるようになった。

 

名前を呼ばれるって幸せなこと。それは本当に特別なこと。

葉山さん

料理のさしすせそ ならぬ看護の超基礎、基盤を私に教えてくれたのは、まぎれもなく葉山さんだ。

感謝している。(だいぶ後になって。)私は病院に新人看護師として入職して5年間葉山さんと仕事をしたのだが学ぶことが沢山あった。葉山さんは50代、ベテラン看護師だ。細身で髪の毛は黒のオカッパ、化粧っけは全くない。私服も喪服ですか?という位黒い服をきている。(ナース服が白いからまだいいが)表情も柔らかさがないので(わたしの仲良しの先輩からいわせると、ナマハゲの顔だと言っていた。ちなみにその先輩は葉山さんからバチクソイジメられていた。)貧相で幸のない顔をしている。(ごめんなさい。)結婚はされていて、一度家族写真を見せてもらったが、普通の幸せそうな家族だった。

葉山さんはとにかく仕事が的確で早い。そして取りこぼしやミスもない。知識も技術もたけている。毛細血管でしょ?みたいなほっそーい、ほっそーい血管に点滴をさせるし、何聞いても教科書に乗ってるような答えが返ってくる。患者さんの観察も半端なく急変に誰よりも早く気付く。そのせいで毎回私が対応に追われて大変な思いをすると嘆いていた。

患者さんにも教科書的に間違いのない優しさを示すし、言葉使いは丁寧だし、気遣いもある。

とにかく完璧なのだ。

葉山さんから学んだことをいくつか書こう。まず、看護師たるもの自分自身の体調を管理するのも仕事である! だから葉山さんは、体調不良で私が休んだ次の日、「昨日は迷惑をかけてすみませんでした。」と謝っても完全無視だった。

看護師たるもの、前日に自分の業務のシュミレーションをし円滑に無駄無く仕事が運ぶよう計画をたてよ!  

だから、葉山さんのシュミレーションを邪魔する他者のミスは許せないのだ。それで私は何度も葉山さんの機嫌を損ねている。

看護師たるもの夜勤者には完璧な状態で引き継ぐべし!

夜勤者が入ってきて患者さんのシーツや衣類がぐちゃぐちゃだったり、すでに点滴が漏れているとか、部屋の誰かが排便をしていたとなると、長丁場の夜勤の始まりから夜勤者のテンションが落ちてしまう。だから自分の受け持ちの部屋は最後に必ずチェックし綺麗な状態で引き継ぐ。私の場合は新人だった1年目あたりは、その最終確認を私がした後に葉山さんが見回って下さっていた。別に頼んでもないし、プリセプターでもないんだけどね。有り難い。…有り難いけど、アラ探しみたいに感じたこともあった。 でも今考えると感謝だよね、本当。

検査データを見てドクターに報告せよ!

これはそのまま。新人の頃はデータが見れなくて、検査から上がってきた採血データの束をただリーダーに渡すことしかしてなかったんだよね。だけど命に直結する数値もあるからデータがあがったらすぐに自分でも目を通して、気になる数値は報告しなくちゃいけないって教わった。 

他にも看護技術の基本、実践、知識も聞けばきちんと教えてくれたり、見せてくれたり、不安な時は頼めば一緒に付いてきてくれたりしてくれる人だったので新人の私にとって本当に助かった。慣れてきてからだが他愛もない話をすることもあったし、お互い様だからと私の業務を手伝ってくれることもあった。

この お互い様だから という言葉も

私が大変な時は手伝ってよ的な圧を感じて少し怖かったけど。

 

優しいところも確かにある。先輩看護師として申し分ない。 でもね…

意地悪なんだよ。自分が気に入らない人に。

私の仲良しの先輩なんて、シフト表の名前の順が葉山さんの上にあっただけで嫌われてかなり冷たく当たられていた。余りにひどいから、先輩は師長に言って印刷の順番を変えてもらったそうだ。

あとは、例えば誰かが、何かの処置を忘れているとか、何かの処理を取りこぼしていることに気づいていても、相手が葉山さんの気に入らないスタッフだとそれを教えてくれないんだよね。その日に言えば済む話なんだけど、わざと次の日とか後になって「えー、〇〇やってないんだけど、この日のケアだぁれ?」とターゲットに聞こえるように言うんだよね。

それで、1週間のケア割表があるんだけど、それを見ながら犯人を探すわけ。(誰だか分かってやってるのよ。)それで確認しながらコソコソ、ターゲットに聞こえるか聞えないか位の声で悪口言ってるわけ。辛いんだよー。それを 何人もに言うんだよねコソコソ。

私です!犯人 分かってます!すみません。肩身の狭ーい思いになる。

あとは、例えば葉山さんがその日のリーダーだとしたら、全てが完璧に回るように目を配るし采配するんだけど、葉山さんがその日Aケアで、気に入らないやつかがBケアだとしたら、Bで何かトラブルあっても「しーらないっ。」って冷めて小馬鹿にした感じでノータッチスルーなのよ。自分のAが完璧ならそれでいいんだよね。

冷たいんだよー。

とにかく怖いからさ、葉山さんをホイホイおだてて自分に矛先が向かないようにしているスタッフもいたよ。葉山さんが大きめの処置を担当する時は、声もかけないのに何人もスタッフが手伝いに来て余る位でさ、次の日私が同じ処置担当したら、仲良しの先輩と2人しかいなくて人数足りなくて焦ったよ。ちーん。

現実なんてそんなもんよ。

色んなことを良くも悪くも教わったかな。

5年たって葉山さんが別の病棟に異動が決って、流石にお世話になったから手紙とハンドクリームをお礼に渡したんだよね。そしたら返事を頂いて、そのなかに「斉木さんにあたってしまったこともあってごめんなさい。」って書いてあったんだ。

仲良しの先輩に話したら、「あたってるって自覚あるって最悪じゃん!」って言われて、謝ってくれていい人だったのかなって思った私はあまちゃんでした。

もう一度、葉山さんと同じ病棟で働きたいかと言われたら、丁寧にお断りするけど、新人の私にとって葉山さんの厳しさは必要だったかなって思う。全然別の理由でトイレで泣いたことも何回もあったし厳しいことは他にも沢山あったから。

インパクトあることの方が自分に糧になったと思いたい。

月日は流れて、葉山さんにお孫さんができたらしく少しは丸くなったのかなーなんて思ったけど、葉山さんを新人のプリセプターにつけると新人が辞めるという噂にを聞いて、まだまだ元気なんだなぁと笑ってしまった。

 

 

 

 

塚地さん

塚地さんは、病院に出入りしている害虫駆除業者さんだ。

お笑いコンビのドランクドラゴンの塚地さんに体系と雰囲気が似ているので、私のなかで勝手にそう呼んでいる。

塚地さんは年に2、3回病棟にやってきて壁際や部屋の隅に薬剤を噴霧していく。

ブルーのつなぎを来て笑顔でやってくる。体型が体型なので、毎回大汗をぬぐって作業しているため、いつも大変そうに見える。

夏だったか、尋常じゃない汗を垂らして仕事していたので「暑くて大変ですね」と声をかけると、パァ〜と輝く笑顔で挨拶してくれた。笑うとほっぺの肉がぎゅぅと上がり目がなくなったかのように細くなった。

それから、顔を合わせると私に対して笑顔で挨拶してくれるようになった。

個別で挨拶されると親近感がわくものだ。

ある時、おふろ場の鍵も開けてもらえますか?と頼まれて開けにいくと、2人になったタイミングで「あの…ご結婚はされているんですか?」と塚地さんに聞かれた。

「あぁ、昔にしてました。」と笑って私は答えた。

あれ、塚地さんって私に気があるのか?と思ったが私も仕事中なので 頼まれた事をすませると「じゃあ お願いします。」と業務に戻った。

又半年くらいして 塚地さんかが病棟にやってきた。今日は保護室前の廊下に薬を撒くので入ってもいいかと聞かれ、「どうぞ」と鍵をあけ一緒になかに入った。

塚地さんは 恥ずかしそうにただでさえ暑くて赤く蒸気させた顔を、さらに赤くして

「この病院で1番きれいです。」と褒めてくれた。

又4ヶ月位たって 私が処方された薬を薬局に取りに院内の道を歩いていると、業者の車の中から私に気付いた塚地さんが、輝く笑顔で手を振っていた。

たまにの一瞬しか顔を合わせないのに、塚地さんの好意が十分伝わってきて、それに無邪気な子犬のような純粋さを感じて私はどうしたものかなぁと思っていた。

又半年後、病棟に塚地さんがやってきて、今回は患者さんもいるホールで呼び止められ、「今度、空いている日があったら食事にいきませんか」と唐突に言われた。

私は業務の途中でバタバタしていたので、驚いたこともあって「え?あぁ…はい」など曖昧な事を曖昧な顔で言い、塚地さんの横を通り過ぎた。

それから何回か塚地さんは病棟にきたが、顔を合わせない時も多く私もすっかり忘れていた。

しばらくぶりに害虫駆除業者が病棟にきた時に担当が塚地さんじゃないことに気付いた。あれ、今日は違う人だなと思っていると その業者の方が私にそっと近づいてきて「前任者の前田から お世話になりましたと よろしくお伝えくださいと頼まれました。」と声をかけられた。

前田? そうか!塚地さんは前田さんだったんだ。仕事辞めちゃったのか。

わざわざ〇〇病院の〇〇病棟に、こんな看護師さんがいるから、お礼を言って欲しいと 塚地さんは引き継ぎしたのだろうか。だとしたら、だいぶ私のことを本気で好きだったんじゃないか。

あのデートのお誘いも真剣な告白だったのかな。

もう 挨拶すらできないのかと思うと、日焼けして肩からタオルをかけてブルーのツナギで汗を拭きながらニコニコわらう塚地さんのことをしばらく思い出していた。

骨メタの酒井さん

聴診器を手に取ると思い出す人がいる。

酒井さんだ。

私がまだナース1年目のとき酒井さんは入院してきた。酒井さんは元は大工さんをしていて細見の体型ではあったが威勢のいいおじさんだった。ご飯の時も他の入院患者さんとホールで食事をするのだが、片膝を椅子に立てて食事する。行儀が悪い気もするのだが、それが酒井さんスタイルで職人らしい気がした。

初めは精神的な症状が強くて入院してきたが、入院してから身体的に体調がどんどん悪化してしまった。排便がない日が続きイレウスになってしまい、ほんとにひどい時は吐物が水様便様のもので、便臭がして驚いた。当然毎日ナースは腹部チェックをする。忙しい業務のなかで、その日酒井さんの担当だった私は腹部チェックにいった。お腹はガスで膨満しており、苦しそうだ。「音聴きますねー」と聴診器をあてたとたん「そういうのは手で温めてからあてるもんじゃねぇのかっ!」怒鳴られた。   「すみませんっ!」慌てて私は聴診器を引っ込めた。普段はしていたのに、今日は忘れていた、いやそのくらいの違いを患者さんは感じないと勝手に思っていた。相手がヒヤッと冷たい思いをしたりびっくりしないように聴診器膜面を手で温める基本を疎かにしていた。相手を思う基本の看護じゃないか、、、。              そんなこと位で怒鳴らなくてもという小さい怒りの後に反省が襲ってきて落ち込んだ。                 酒井さんの体調は悪化し、精神科での検査や治療では良くならず専門の医療機関で色々と検査した。ある日の申し送りで、酒井さんの検査結果は骨メタだと申し送られた。ナース1年目の私は なんの病気なんだ?と思って先輩に聞いたら癌だった。

がん細胞が血流で運ばれて骨に転移している状態だった。酒井さんには内縁の妻がいて、積極的な治療は望まないという希望だった。酒井さんには精神疾患もあり落ち込んでしまう為癌である事実は本人には伏せたままで対応することになった。

酒井さんの状態はどんどん悪くなっていった。歩けなくなり、食べれなくなり、点滴になり、骨まで見える褥瘡がおしりに大きな穴を作り、癌からくる強い痛みを訴えるようになった。「いたい、いたい、どうにかしてくれ」と身の置場もなく体を動かす。何も出来ず 体をさするが「そんなんじゃねーんだ!」酒井さんは苛立って手で払う。強い鎮静効果のある精神薬が点滴に追加され酒井さんは1日の大半を眠って過ごすようになった。

酒井さんの家族は内縁の妻しかおらず、面会も頻回には来ない。

酒井さんが ある日ボソっと「俺がこんなんになっちまったから 会いに来ねぇのかなぁ」と言って寂しそうな顔をした日があり胸が傷んだ。

毎日、死に向っていることがハッキリわかる酒井さんに出来ることは 側にいることだった。治療も出来ない今、何ができるかって、何も出来ないんだよね、ほんとに。側にいて酒井さんが寂しくないように、安心して眠っていられるように側にいることが看護だった。空いた時間は酒井さんの部屋にいってベットのとなりに座っていた。フッと酒井さんが目をあけて 「いたのか…」と。 何時にあがるんだ?といつも酒井さんは気にする。少しでも長く側にいてほしいようで ちょこちょこ腕時計をきにして あと、五分かぁ…とか あともう少しだなぁと寂しそうに酒井さんが言う。

酒井さんも、誰もなにも言わないし、酒井さんも聞かないけど自分の生命のことをわかっている様子だった。だから何も話すことはなかったけど、ふたりで窓の外をながめていることが多かった。

ある日 同じように酒井さんの部屋にいてたまたま私が眼鏡を外すと 酒井さんが「眼鏡がないほうが、可愛いじゃねぇか」と笑った。今この状況でそんなこと言うのかと思ったら なんだか可笑しくてわらってしまった。素直に酒井さんが可愛いと言ってくれたことが嬉しかった。

夜勤者も酒井さんのへやで記録を書いたり、出来る業務をしたりして酒井さんの急変に備える意味もあったけど酒井さんが1人で不安にならないようにしていた。

鎮静剤の副作用か癌の末期症状からくるものなのか酒井さんは喉の熱感や乾きを訴えるようになった。サラサラの飲み物ではむせてしまうし、トロミをつけたものは嫌がった。「桃の缶詰が食べたい」と話し、家族に頼んで持ってきてもらったが、やはりむせてしまう。結局売店にあるシャビィというレモンのシャーベットが気に入り、数口ずつだが何日かにわけて食べてもらった。

酒井さんの最後は急変して3日間心拍が160〜180台が続き走り去ってしまった。

入院してから半年位の出来事だった。

しばらく後になってだが、酒井さんに可愛いなぁと褒めてもらった私はコンタクトにした。相当嬉しかったらしい。

怒られたことも、弱気な顔をみせたことも、むけられた痛みの苛立ちも、2人で黙っていた時間も、悲しそうな顔も、覚えているけど、

1番に思い浮かぶのは威勢のいい酒井さんの怒鳴り声だ。