本当かもしれない話 ①おーちゃんの鈴

本当かもしれない話

おーちゃんの鈴:

おーちゃんが亡くなった日に夜勤だった金子さんが、「あの日不思議な事があったんだよねー。仮眠とってたら、鈴の音がずっと聞こえててさぁー。」

その意味を後から知って、私は看護師をしていて良かったと思った。

おーちゃんを初めて見たとき、気持ち悪いと正直思った。オジサンの赤ちゃんって感じ。
頭が大きくて坊主、目はくりっとしていて、顔はオジサン。年齢不明、名前は保護した人がつけた名前。精神科入院歴うん十年。
常によだれが出ているので、職員がタオルにゴムを通して作ったお掛けをしている。
半日で、ビショビショになる。
昔誰かにやられたのか、耳が潰れたように変形している。
靴を両手に持ってペタペタと裸足で病棟を歩く。靴底に宝の地図でもあるのかと思うほど、難しい顔をして靴底を寄り目で凝視している。
トイレに行くよーと声をかけると、ナースステーションのすぐわきにある定位置から立ち上がり、頭をかくように右手を上げて小走りでトイレについてくる。たまに機嫌や体調が悪いと、トイレに誘っても渋い顔をして定位置から動かない。オムツがびっしょりだったり、下まで便がもれていることも日常茶飯事だから、「おーちゃん!トイレ行くよ!」と手を引っ張ってみたりするのだが、余計眉をひそめて手で振り払ってくる。そういう時は、病棟に必ず一人か、二人はいる、ちょっと強めな古株職員に交代する。
「ほら、おーちゃん、行くよ」
さっきのイヤイヤはどこへやら、おーちゃんはサッと立ち上がりトイレへ小走りに向かうのである。(ちなみに爪切りなんかも一緒で、そんじょそこらの職員には切らせない。)
おーちゃんは昼食のメニューがカレーだった日に、他の患者が食堂でカレーを食べるなか、いつもの定位置でカレー色の水溜りを作っていた。
おーちゃんは、トイレに連れていかれながら「もぉ!」と怒られていた。
おーちゃんは、イレウスという腸の動きが悪くてガスや便がたまる病気になりやすいので、薬の一包のなかに8分目くらい粉薬が入っている薬を飲ませなくてはいけない。
これも厄介で、調子よく大きな口を開けて上をむいてくれることもあれば、渋い顔で顔を背け譲らないこともある。おーちゃんの体調や機嫌によっては、勢いよく水と薬を吐き出し何人もの女性職員をキャーキャー言わせたりしている。
採血なんかも、数人で抑えて職員を汗だくにさせたかとおもえば、古株ナースの前で素直に手を出していることもあって、うまくやっている。
湯船に浸かるのが好きらしく、なかなかあがらない。貫録のない優しい職員や新人ちゃんが「おーちゃん、のぼせるからあがって」なんて何回言っても聞こえていない…ふりをしている。
おーちゃんはたまに、おもむろに下半身を出して、おちんちんを大きくさせたりするから又職員に「こんなところでするんじゃないのっ!」と怒られたり、女性職員をキャーキャー言わせたりしている。
呼ばれると、トコトコついてきて怒られるとテケテケと小走りで退散するのである。

おーちゃんは喋れない。
その代わりに呼吸をするように「うー、うー」と唸っている。寝ているとき以外ずっとである。
誰かが「どこかで携帯のバイブが鳴っているのかと思った。」と笑っていたが、まさに一定の音と間隔で「うーうー」言っている。
夜、おーちゃんが寝ないで一晩中唸っていると仮眠がとれないと夜勤者が嘆いていた。
この唸り声とよだれは、おーちゃんの健康のバロメーターで変化があると、おーちゃんの具合が悪いのではないかと職員で心配したりもしたのだった。
さっきおーちゃんは喋れないと書いたが、いくつか話す言葉もあった。例えば、おーちゃんが嫌なこと(採血、点滴、処置、薬、歯磨きなどなど)をするときに「嫌なの?」と聞くと、オジサンの野太い声で「ハイ」と答えてくれることがあった。あとは「ブッコ」
これまた、おーちゃんが嫌なことをしなくてはいけないとき手をブンブン振り回して、足もバタバタさせ、ツバ吐きもしながら「ブッコ!ブッコ!」と抵抗してくる。一年くらいかけて「ブッコロス!」まで言えた時は感激して拍手して私は喜んだ。
気持ち悪いと思って近寄りたくなかったオジサン(お爺さんにちかいのか…年齢がわからない)でも8年も毎日顔を合わせて、かかわっていると自然に愛情がわく。
おーちゃんの笑顔は全世界を救えるくらいかわいい。どちらかと言うと人を拒絶したり、眉をひそめて床か靴底を眺めているおーちゃんが、ニヤーっと、デレーっと笑うことがあって、けしてニコッと可愛くスマイルからは程遠いが、私を幸せにしてくれるかわいさを持っているのである。
私はそんなおーちゃんの顔が見たくて、「おーちゃん」と呼びかけて顔を覗きこんだり、肩やお腹をツンツンしたりすると、おーちゃんは本当は笑いたくないのに思わず笑ってしまったという顔をする。
おーちゃんが、私から薬を飲んでくれなくて先輩に変わった途端すんなり飲んだ時も、
「もぉー、どうして私だと飲んでくれないのぉー?!」とおーちゃんの顔を覗きごむと、誤魔化すような笑顔をみせたりして、まぁ私は完全におーちゃんになめられていたんだろう。

今でもおぼえている。嬉しかった出来事。
入浴の日、更衣室でどういう流れでそんな話になったかは忘れたが、職員か数人でみんなの着替えを手伝いながら、「おーちゃん、〇〇さん好き?」と職員の名前を一人ずつあげながら聞き始めた。おーちゃんはいつも通り「うー、うー」言いながら眉間にシワをよせてうつむいている。ちょっと厳しめの職員の名をあげた時、おーちゃんはあからさまに渋い顔をした。
「じゃあ斉木さん好き?」と私の名前を聞かれると、野太い声で「ハイ」と答えたのだ。
なんだか、すごく嬉しかった。

おーちゃんは知的障害をもっている。ほとんど喋れないから告げ口も出来ないし、手を振り回す位の抵抗しかできない。昔他の患者からイジメの対象になったりしていたらしい。
生まれも育ちも不明だから親も身寄りもお金もない。イレウスを何回も繰り返しているから3食高カロリーの飲み物だけで、固形物は食べれない。
おーちゃんが具合が悪くなると、その飲み物さえ受けつけなくなる。飲み物を受け取ってくれなかったり、こぼしてしまったり、何時間も持っているだけになってしまう。そうなると病院だから点滴や、鼻から胃までチューブをいれて栄養を入れる指示が出る。もちろん、おーちゃんは嫌がる。暴れると点滴が抜けたり、チューブか抜けて危険になる。
やむを得ず、命を守るためドクターから拘束の指示がでる。

持ち直すおーちゃんも何回もみてきたけど、
今回はおーちゃんは衰弱してしまって、もう拘束する必要がなくなった。
おーちゃんが亡くなったのは私が出勤の日だった。うーうー言わないおーちゃんの大きく開いた瞳孔を先生が確認する。まだ心電図モニターはかすかな心臓の動きを拾っていた。
私はおーちゃんの頭を撫でた。
トイレにパタパタと小走りで走るおーちゃんの後ろ姿を思った。
恥ずかしそうに目を合わせず笑うおーちゃんの笑顔を思った。


「満足して死んだ霊は鈴の音を鳴らしたがる」と誰かの著書にあるそうだ。
後からその話を聞いて、私は安心して涙が出そうになったのをナースステーションでぐっとこらえたのだった。